目新しくもない初夏の夕立だった。

降り注ぎ落ちてきたのは、頭上の雨か―――身内の恋か。







Shower of Love
























最近が、森の広場を主な練習場所に選んでいることは知っていた。

訊けば、緑が心地いいらしい。
暑くもなく寒くもないこの時季、「外でバイオリン弾くの気持ちいいんですよ」とのことだ。

冷房をつけるほどでもない。
開けた窓の隙間から迷い込んできたそよ風が、俺の足を準備室から押し出した。

湿った空気もご愛敬、のどにはいいんじゃないかなんて。
厚い雲すら、肌を刺す日差しに比べればまだましか、なんて、な。

今にも落ちてきそうな雫。
膨らんで割れそうなもの。

それはきっと空にだけでなく俺の中にもあって。
それを探していたのだと、その音を耳に入れて思いついた。
その姿を目に入れて、確信代わりにそっと笑む。

熱心に、弾いてら。


「ブラボー」


拍手とともに言ってやれば、それまで俺に気づいてなかった顔がきょとんと俺に向いた。

「先生」
「よ、ご苦労さん」

へへ、と薄ら笑いを浮かべてはバイオリンを片付ける。
観客はまばら、それもぱらぱらと散り始めた。

鼻歌でも歌いだしそうな表情で丁寧にバイオリンを扱う彼女の傍らに俺は立つ。
自然と笑っちまうのは、「愛おしい」という感情の仕業だろうか。
バイオリンを見つめるお前さんも。そんなお前を見つめる俺も。

「しっかし見事にお前さんしかいないな」

周りを見渡せば、音楽科の生徒の数そのものが少ない。
楽器の演奏をしているのは、一人だ。

はしゃがんだまま、空を見上げた。

「今にも降りそうですもんね。
湿気があると音もちょっと違うみたいなんです」

「まぁ、そりゃな」

「ここに来る前に月森くんに会ったんですけど、そのときも怒られちゃって。
『雨が降ってきたらどうする気なんだ』とかなんとか。
だから私もちょっと怖くなっちゃって、早めに切り上げようと思って。
――あ、今の月森くんのマネです。結構似てると思いません?」

俺は肩をすくめてみせた。

へぇ、月森がねぇ。

眉間にしわを寄せて、
「似てると思うんだけどなぁ。そうだなぁ…、『金澤先生は今日もサボりですか』」
などと、仏頂面で失礼なことを言いやがるを睨みながら、
真似されている本人のほうを思い出す。

自分を磨くことに切磋琢磨、他人の世話など言語道断、
という印象だった月森が、春の学内コンクールよりこちら、緩やかにだが変わってきた。

思えば人との関わり方を知らなかっただけなのじゃないかという気はするが、
この、心の隙間にすんなり、水のように自由に滑り込んでくるという人物は、
いつの間にか、頑なな魂を潤し、やわらかいものに変えてくれる。

おそらく、月森もだろう。

森の広場に繰り出すに、わざわざ声をかけて小言を言う月森を想像すれば、少々笑えるな。

「うわー先生いやらしい」
「は?」
「にやにやしちゃって」
「こういう顔なんだ」

あははは、と笑声が響く。
おい、否定しろよ、と思いつつ、俺は再び笑んだ。

「バイオリン、楽しいか?」

彼女の目つきが変わる。
口元をほころばせたまま、しっかりうなずいて、「はい」と言った。

「まだ先々の自分はわかりませんけど、今は、これが私の芯です」
「シン?」
「心臓、中心、支柱。あ、食べるほうのシチューじゃないですよ」
「だれがオヤジギャグを言えと言った」

へへ、と笑う。

「でも、もう想像できないんです。
バイオリンがなかった頃のことが、昔のことみたいで。
巻き込まれたって言ったっていいくらいのことだったのになぁなんて。
なにかに夢中になったり一生懸命になれたりしたの、初めてだったかもしれなくて、
こういうのって、案外クセになるんですね。…もしやマゾなのかな私」

「……」

応える代わりに目を細めた。

眩しかったのかもしれない。

若い青いと言うのは簡単だが、
失えば取り戻せないその形容詞は、失った者にとってはひどく眩しい。

力になってやりたいと、思ってしまうのは教師心からだろうか。
そう問いかけることで、俺は、とどまりたいのか、それとも、脱したいのか。

わからんな。

この答えも、性急に出すことはあるまい。


一つため息を吐いて、じゃあもうお前さんはそろそろ校舎に戻れ、と言おうと思ったところだった。
俺は猫の顔でも見ていってやろうと、思っていたわけだ。


―――ポツ。


頬への突然の刺激。
触れば、既に乾いた水滴の名残。

「あ」

が呟くのが聞こえるや否や、瞬く間に怒号が辺りを制した。
視界が霞みがかる。一瞬で全てが濃く色づいた。紗幕のようだ。
石畳の歩道に打ち付ける雨は、跳ね返り散乱して砂煙のようなもやを作る。

雨脚は強まるばかり、
そばにいた生徒たちはすぐさま傘を差し、校舎に向かって駆け出した。

俺たちもすぐ木の下に逃げ込んだが、一時しのぎにもならないとわかり、校舎に向かうことを決めた。
がバイオリンケースを抱きしめてぎゃーぎゃーとわめいている。

木の下でも濡れてしまう。
でも一歩出れば驟雨の餌食だ。

俺はまだ被害の少ない自分の白衣をに貸そうと袖を脱ぎかけた。

「あ! だいじょぶです先生!」

がそれを見止める。まだなにもしてねぇっての。

そして、口を引き結ぶ。

「これはある意味自業自得ですが、私に巻き込まれたこの子は不憫なので」

俺にバイオリンケースを差し出して、白衣の中に押し込もうとする。

「バイオリンさんだけ入れてあげてください。私は大丈夫!」
「……」
「よし、じゃあ行きましょうせん―――え!?」

ふわりと。
湿気が充満しているとは思えないほど軽やかに白衣が翻った。
がちゃがちゃとうるさいの頭上まで、片袖を抜いた裾を広げてやる。

すっぽり包み込んで、軽く肩を抱く。
俺の内側でバイオリンを持って固まるに、苦笑した。

「はいはい、バイオリンさんもさんも入れてやるから、
わめいてないでさっさと校舎に戻るぞ」

ほら、と促せば、は俺と一緒に走り出した。

すぐに白衣も水浸しになったが、中まで染みこむまでの時間はもつだろう。
ぎゅっとバイオリンを懐に抱いて走るは、それを守りきろうと必死に見えて笑えた。

校舎の扉を見つけてほっとして振り返れば、緑が雨に濡れて青々と主張していた。
すっかりびしょぬれの俺の中から、走ったからかなんなのか、ほっぺたを赤々と染めたが出てくる。

そのまま白衣を脱いでしまって、シャワーを浴びたみたいな自分の髪をなでつけた。
はしきりにお礼を言っている。

わーったわーった、と言いながら、白衣をしぼって水を切れば、
うわぁと、目の前の少女が感嘆の声をあげた。


他の生徒でも、同じことをやっただろうか。


雲はもう、耐え切れずに割れてしまった。
俺はもう一度、勢い止まぬ雨の軌跡を目で辿り、
それはどこへ向かうのだろうと、頭の片隅で考え続けていた。















最近が、森の広場を主な練習場所に選んでいることは知っていた。

確かにあそこは良い場所だが、
夏の、特に湿気のこもるこの時季の気候はあまり演奏向きでない。
楽器にも悪影響が及ぶ。
学内コンクールも終わり、人前で演奏する生徒の姿も稀なものになり、
空調の整った練習室がやはり最適なのだと、皆原点に立ち返って練習を続けている。

だがは、毎日のように、森の広場を訪れている。
バイオリンを持って森の広場へと駆けていくの姿を何度も見た。

確かに、の存在は、普通科と音楽科の溝を埋めるのに一役買っている。
クラシックだというのにどこかポップスのような、そんな雰囲気をまとっているのだ。
彼女の音楽を聴こうと森の広場に集まる者も少なからずいた。

だが。

今日は夕立がある。

予報の情報だけでなく、見れば空もどんよりと曇っていた。
なにかを孕んで膨らむ雨雲。まるで不安の象徴だ。

大事にしている愛器が濡れてしまえば、一番悲しむのは彼女だろうと思う。
後悔は先に立たない。

だから、見かけた彼女に声をかけたのはいいものの、なぜかうまく伝えることができなかった。
それで結局彼女は、一通り俺の話を聞いた後、
「じゃあ今日は早めに切り上げるから!」と笑って駆けていってしまった。

彼女が森の広場によくいくことは知っていても、俺がそれを知っていることを彼女は知らない。
だから、通り一遍のことしか言えなかったのかもしれない。

なぜ俺は知っているのだろう。

それは、よく窓から彼女の姿が見えるからだ。
楽しそうにバイオリンを抱えて走る姿が。
転びそうでいつもはらはらする。

窓から。
見える。

―――違う。本当は、探している。

俺の胸内にも、なにかが渦巻いて雨雲のようにうごめいている。
大きくなっていく。まるで不安の象徴だ。


窓を打つ雨の雫に気づき、俺はなぜか一度練習室を出た。
折りたたみの傘をもって、普通科校舎のほうへと向かってしまった。

森の広場に続く扉を前にして、目に飛び込んできたのはグレーの景色に映える白い布。
金澤先生と、その白衣の中で縮こまって走るだった。

俺は自分の手に握った傘を改めて見返し、
どうしてここにきたのか、なにをしようとしていたのか、自分がわからなくなってしまった。

そしてまた練習室に戻り、聞こえない雨音を聴く。
窓に絶えずぶつかり続け、次々と流れ落ちるその様を見る。

弦はいつもと変わらず震えているのに、俺は自分が震えているような錯覚に陥った。

あの様子じゃ、おそらく傘は持ってきていないのだろうと、俺は唐突に思い至った。


は、もう帰っただろうか。





二年二組の教室は、電気もつけられていなかった。

日が落ちるのは徐々に長くなってはいるものの、外がこの様子では室内は暗い。
ひんやりとこもった空気の中で、一つの席に少女が突っ伏していた。

だ。

まさか寝ているのだろうか。
俺は起こすべきか逡巡したが、幸福そうに緩んだ顔を見てそれをやめた。

傘を置いて出ていこうか。
けれど、がその傘を使うとは限らない。
結局濡れて帰ってしまうかもしれない。

妙なところで遠慮をする、そういうところのある人だった。

薄暗い部屋に雨音が響く。
ここは当然防音されていないから、容赦なく窓は震え、それ相応の轟音が鳴っている。

俺は窓際に進み、壁に寄りかかって外の様子を眺めた。
ここでも容赦なく、窓ガラスは雨の行く手を阻んだ。

頭上高くから、無数の粒が流れ落ちてくる。
地上にぶつかり、小さな音を立てて弾ける。
それらが重なり、室内にも響く音楽になる。

不安の象徴のように暗躍していた雲から生まれるのは、天然のオーケストラか。


それならば、この俺の中でふつふつと成長し続けるこの感情も、いつか音楽に変わるだろうか。


いまだ微動だにしないを見る。
衣替えも終わり、長袖とはいえブラウス一枚だ、ということに俺は気づく。

俺は指定のシャツの上にアイボリーのカーディガンを羽織っていた。
その俺でも、わずかに空気が冷えているのがわかる。

眠ると体温は奪われる。
風邪をひくかもしれないとか、そんなことは考えないのだろうか、彼女は。

迷った末に、俺は自分のカーディガンを脱いで彼女の肩にかけてやった。
浮かんだ真っ白な映像に、俺は首を振る。

違う。
先ほどあれを見たから、ではない。

自分の感情をもてあまし、俺は再び窓際に戻る。
なにをしているのだろう、俺は。

帰りたくないのだろうか。
この場を離れたくないのだろうか。

なぜ?

目を閉じて、雨音に耳を澄ます。
全てこの音の中に溶け込んでしまえばいい。

不意に、俺は旋律を思い出した。

気づけば、静かな空間に、緩慢なユーモレスクが流れ出していた。

この教室でバイオリンは鳴らせない。
―――口笛だ。


目を開けたら、が起き上がって目を丸くして、俺を見ていた。
俺のカーディガンを肩にかけていて、俺はそれに気恥ずかしくなる。

「……ん? ナンだ?」

起き抜けに、は間の抜けた声を出した。

「は?」
「……ええと、月森くんだ」
「……あ、ああ」
「今口笛吹いてなかった?」
「……」

俺が顔を背けると、は一層目を丸くする。

「びっくりした。口笛なんて吹くんだ月森くん」

不覚だった。
雨音がかき消してくれるとでも思っていたのだろうか。
俺一人しか動いていない空間で、ここが自室だとでも勘違いしたのだろうか。

しかも、を起こしてしまった。

「すまなかった」
「なに?」
「せっかく寝ていたのに起こしてしまった」
「……せっかくって!」

ゲラゲラとが笑う。
不可解だ。

「これ、月森くんの? ありがとう」
「いや」

カーディガンを指し示されて、
まるで俺のではないと言っているかのような返答をすれば、は一層おかしそうに笑う。

目の端に映る彼女の様子が、やはりとても楽しそうで、俺の心もなぜか浮き立つ。
学内コンクールで彼女と出会ってから、こういうことが増えたような気がする。

学校が、前よりも良い場所に、思える。


あのね、とが弾んだ声で言った。

「今の口笛、ユーモレスクだったよね」

うなずけば、彼女は破願する。

「私もね、雨が降ると弾きたくなるのユーモレスク」
「……どうして」
「どうしてって、月森くんも一緒なんだと思った」
「あ、いや」

なぜそれを選んだのかは、明確でない。
ただ、浮かんだというだけで。
彼女がコンクール期間中に弾いていた曲だ、ということは覚えている。

なーんだ、と言って、それでもは笑った。

「ほら、あっめあっめふっれふっれかぁさんが〜、っての、似てない? ユーモレスクに」

俺は彼女が急に歌いだした旋律を思い浮かべた。
傘を持って、母親が迎えにくるという童謡か。

長靴で、水溜りを蹴って。

自分の幼き頃を思い出した。
そんなふうにはしゃいだ記憶はないが。

きっとは、そうだったんだろう。

俺は思わず笑ってしまった。
この人は、今でもやっていそうだ。

「似ていないことはないな」
「でしょ!? きっと月森くんも無意識に思い出しちゃったんだよ」

嬉しそうにしているから、それでいいか、という気になった。


「それにしてもやまないねぇ」
「雨か?」
「うん、予定では起きたら雨やんでるはずだったんだけど」
「……」

「もうすぐ六時だし、もう帰んなきゃだよね」

俺は壁の時計に目をやる。

「確かに。じきに追い出しもくるな」
「ね、帰らなくちゃ」

俺は、今は鞄の中にしまいこんでいる折りたみの傘のことを思い出した。

「君は傘を―――」


「おーい、残ってるヤツら、もう帰れよー?」


今日の見回りは、金澤先生だったらしい。















「ん? 月森も一緒か?」

鞄は教室に置いてきた、と言っていたが、ひょっとしたらまだいるかもしれないと思った。
教室の前で話し声がして、だれかと一緒なのだろうとは思っていた。

しかしそれが月森だなどとは、全く予想していなかった。

俺は教室の電気を点けてやる。
普段は気にならない明かりも、急に点ければ目に痛い。

よくもまぁこんな暗いところで話してたもんだぜ。

「わ、明るい。いつの間にか暗くなってたんだねぇ」

「もう下校時刻だぜ、さっさと帰る準備しろよー?」

ここは普通科校舎三階。二年二組だ。
音楽科の校舎は二階建て。

つまり、月森は、ここに来ようと思わなければ来られないわけで。

なにかのついででは、ない。

月森の表情をうかがえば、ひどく固い。
そしてまた、さっきがやってたように、眉間にしわを寄せて、所在なさげにしている。


―――なるほど、な。


薄々わかってはいたが、そういうことか。
ま、この場合、教師が出張るのは野暮ってもんだ。


「じゃあまぁお前さんら―――」
「それじゃ、俺は帰ります」

月森が、に向けてではなく、俺に向けてそう言った。

「は?」
「確かにもう下校時刻ですね。金澤先生のお手を煩わせて申し訳ありませんでした」

「じゃあ」とに少し笑むようにする。

そんなやさしい顔してからに。

「……おいおい、お前さん、を送ってやれよ」

通り過ぎようとした月森が驚いて俺を見上げた。

「なぜ俺が」
「なぜって……」

わざわざ教室にまで来て、それを言うかお前。

月森は、もういつもどおりの無機質な表情に戻っている。
冷静で、賢くて、分別のある顔だ。

「学校所有の置き傘、というのが、確かありましたよね。
に貸してやってください」

「……え、そんなのあるの?」
「……あ、ああ、まぁ、あるにはあるが。
卒業生やらが置きっぱなしにしてた置き傘とか」
「やった、じゃあ、貸してください。傘持ってなくて」

がにこにこと悪びれずに言う。

「だが月森」
「さようなら」

「うん、また明日ねー!」

振り返り、また、わずかにヤツは笑う。

「……また」

そしてそのまま、教室を出て行った。


「夕立っぽいのに、やまないですねぇ、雨」


ぽつり、が呟くのが、やけに耳に残った。















普通科のエントランスを出て、傘を広げた。

に渡すつもりだった傘だ。
バイオリンにはレインコートがあるし、俺は別段濡れて帰っても構わなかった。

しかし、俺は傘で雨を遮りながら早足で歩く。
門をくぐり、坂を下った。

今俺の上で、窓に打ち付けられたように雨が打ち付けられて滑っているだろうか。
柄を握る手に力がこもり、同時に小さく寒気を感じた。


―――カーディガン。


から返してもらうのを忘れていた。

いかに慌てていたかが窺える。
ひどいものだな。


俺は苦笑してうつむき、地面に作られた水たまりに気づいた。


『ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ』


そこに長靴を履いて入る幼いの姿を思い浮かべて、寒気がどこかに飛んだ気がした。


明日、彼女は二年A組にカーディガンを返しにくるだろうか。


俺の中の雨雲も極みを超えたらしい。
溢れ、雫を落とし、心臓と一緒に時を刻む。

まるで音楽のように鳴り続けていた。


















END 2008.6.21

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リク内容:金澤vs月森・白衣を傘のかわりに・教室

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