その古本屋は、立ち並ぶビルの間にひっそりと建っていた。
赤い夕陽がたった一筋、店に差込んでいる。
(あれ、こんな所に古本屋なんてあったっけ?)
職業柄、は書店や古本屋によく足を運ぶ。
何度か訪れたこの街は、確か大型書店が1、2軒あるだけだとは記憶していた。
店の中に入ると、主人らしい老人がにこにこと笑い、会釈をしてきた。
自らも会釈を返し、は本棚へと歩み寄る。
一番下の段から上の段へと視線を滑らせていく途中、
ふとは一冊の本に強く心惹かれ、それを棚から抜取った。
文庫本よりも若干大きめなその本の表紙にはタイトルも、著者名すらも書かれてはいない。
ただ、黒い表紙の中心には、銀箔だろうか、椿とその周りを戯れるように飛ぶ揚羽蝶が刻まれていた。
「―――――……お気に召しましたかな?」
ふいに声を掛けられ、は弾かれたように顔をそちらへ向けた。
先程の老人がの横に立ち、相変らずの笑顔を浮かべている。
「はい。不思議な本ですね、これ。著者名も、題名すらも書かれてなくて。
洋書のように見えるけどこれ、和書ですよね?初めて見ました、こんな本」
「そうでしょうな。これは、人を選ぶのです。それが求める者以外にその姿を見せず、存
在すら気付かせはしない。今までにも、幾人もの人がここに訪れたが誰もその本を手に
取った人はいませんでした。きっと、それは長い長い間、あなたを待っていたんでしょうね。」
「え………………?」
『待っていた』という言葉に、はデジャブを覚えた。
昨夜見た夢の中、あの碧 蒼天と名乗った青年は、自分になんと語りかけた?
そう、確か―…『御待ちしておりました、我等が神子姫』と。
これは…………偶然、なんだろうか。
「あの―――――これ、下さい。」
「……………なんか、買っちゃった……」
数時間後、は例の本を前に、床に座り込んでいた。
なんでこう、自分は心惹かれたもの(主に本)を見ると衝動的になってしまうのだろうか。
溜息をこぼしながら、その象徴である本をパラパラと捲る。
「へぇ……画集、みたいなものなんだ。」
どうやらこれは日本や中国の神仙や伝説を取扱ったものらしい。
亀、竜、麒麟に鳳凰…青龍、白虎、朱雀、玄武…………四端に四神達がまるで生きているかのようなタッチで描かれている。
これは意外と良い買物をしたのかもしれない。そう考えながらは更にページを繰っていった。
「………………………!!?」
ふいに、眩い光がその網膜を焼いた。
『―――……時は満ちた。時空の渦が、廻る――………。』
何故か掠れゆく意識の中、その声だけがの中にはっきりと響いていた。
「―――――……おい、おきろってばねぇちゃん!」
あどけない子供の声がの頭上に降りかかる。
はまだ瞼を閉じながら、ぼんやりと覚醒しきっていない頭で考えた。
(あれ……私に弟なんていたっけ………?)
…………そして、何故耳のすぐそばで水が流れる音が聞こえるのだろうか。
パッシャァァァッ
「うわっ………!?ちょ、水鼻に入っ……」
いきなり顔にぶちまけられた水に驚き、流石には瞬時にその身を起こした。
「ったく、ようやくお目覚めかよ。苦労したぜ」
「ヒ、ヒノエ。やっぱり、水をかけるというのはやりすぎではなかったのか………?」
(な……何この子たち………?かわい…、じゃなくて、このカッコって…………水干、だよね。)
彼女の目の前には、4・5歳くらいの男の子が2人立っていた。
ヒノエ、と呼ばれた年下らしい赤髪の少年は、悪戯を成功させ、嬉しくてたまらないようだ。
瞳には、強い好奇の光がきらきらと光っている。
手には、どうやらそれで水をぶちまけたらしい竹の水筒が握られていた。
「けどよ、今までさんざ何やってもおきなかったんだぜ?しょうがねぇだろ、敦盛。」
「え……………………!?」
(敦盛って……平 敦盛!?ここはまさか………源平、の世界だとでもいうの…………!!?)
は混乱する頭を必死に働かせ、現状を少しでも理解しようとそこここに視線を彷徨わせる。
平 敦盛(だと思われる)少年は、紫の髪を結い上げ、水干に身を包んでいた。
ヒノエもなかなかに可愛らしいけれど、この子は美少女顔だな、は思った。
「……………………」
「あ、あの…………?」
敦盛は自分をじっと見つめるの視線に戸惑い、頬を赤らめながらおずおずとした口調で問い掛けてきた。
「……あぁ、ごめんね。ここどこか教えてくれないかな。」
「熊野の……熊野川。あの、あなたは………」
「えっと、初めまして。敦盛…くんと、ヒノエくん?私は、。よろしくね。」
笑顔を懸命に保ちつつ、は叫び出してしまいたい衝動を抑えていた。
なぜ神奈川の自宅にいた自分が、熊野の川辺にいるというのか。
(落ち着け。今はただ……情報を集め、現実を見据えなくちゃ…………。)
「よっし、じゃあ行こうぜ、2人とも。オヤジに叱られちまう」
「あぁ、そうだな」
うん、と子供2人は頷き合うとクイとの手を取った。
右手はヒノエが、左手は敦盛がしっかりと繋いでいる。
「えっ?ちょっ……ヒノエくん?どこに…………」
「オレの家に行くんだ。オレ達、オヤジの言いつけでをむかえにきたんだぜ?」
「熊野川に倒れているはずの女性をむかえにいけと。わたしたちと異なる衣を着ているからすぐに分かると……言われた。」
は、打合わせに出掛けた時のままの服装だった。
丈が短めのボレロと、白と茶を基調とした花柄のワンピースの格好は確かに目立つだろう。
は心の中で小さく溜め息を洩らした。
自分がこの異世界にいることが、誰によって行われたかなんて分かるはずがない。物凄く不愉快なのも確かだ。
けれど、何も分らない今、この気持ちを引き摺っているのは厄介だ。
それよりは、例えそれが誰かに用意された物であっても目の前に開かれた道を進むべきなのだろう。
「………ん、分った。じゃ案内お願いするね?」
「「うん!!」」
……………ま、なんとかなるだろう。
今はまだ浅い思考の海に潜りながらも、は楽しげに自分達のことを話す2人に微笑み返した。